鬱病でぶっ倒れていた時、三年寝太郎の昔話を思い出すことで命を繋いだ。三年寝た後に生き返った人間がいたことは、大きな支えになった。結果、鬱病は治った。三年寝太郎の効果は大きかった。しんどい時は、三年でも三十年でも寝たらいいのだと思う。元気になったら、また、生き直せばいいのだと思う。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) July 2, 2018
全くもって間違いねえ。
自分が戦えないと感じているときはしっかりと休まなければならない。
自分を許したようにしか、他人を許すことはできない。ぶっ倒れた経験を通じて、自分の弱さや矮小さを許した。三年寝太郎を通じて、寝ていれば治るのだとも思った。休むことは悪いことじゃない。むしろ、必要なことだ。頑張っていない人間はいない。生きているだけで、充分、頑張っているのだと思った。
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) July 2, 2018
思えば、あの時自分が死にたいと考えるほど追い込まれるまで、
僕は『心を病む』ということの苦しさを分かっていなかった。
自分には縁がないことだと思っていたし、何なら病んでしまった人達を見下してすらいたと思う。
弱い奴らだと。
でも違った。
『心を病む』というのは誰にでも起こりうることなのだ。
たまたまこれまで、環境に恵まれてきただけだったのだ。
思えば辛い環境にいるときも、必ず誰か支えてくれる人がいた。
しかしあの時は…。
転職での環境の激変、なれない仕事とカルチャー、
人間関係が破綻したチーム、指導を放棄して詰める指導係、
自分が辞める気満々でチームに関心のないマネージャー、
そして恋人の自殺未遂によるプライベートの崩壊。
それらの負の要素が重なった時、
あれほど強固だと自負していた僕の心は崩れた。
幸い完全に崩壊する前に逃げ出せたから良かったものの、
人生の大きな挫折となったことは間違いない。
だからこそ、
『自分を許したようにしか、他人を許すことはできない。』
この言葉が心に刺さった。
相手の痛みを思いやれるのは、同じような痛みを味わった人間だけなのかもしれない。
誰もが、精一杯生きているのだ。
できることなら経験せずにいたかった。
いまでも日常生活や、ドラマや映画の中でさえも、
当時を思い出させる『ある場面』に遭遇すると、
動悸が激しくなり、言いようもない苦しみに襲われる。
もしかしたらこれからずっとそうなのかもしれない。
でも、その分誰かの痛みや苦しみに寄り添うことができるようになったと思いたいし、
そういう風に生きていく人間でありたいと思う。