先週、高校時代の友人の結婚式に参加してきた。
地方に赴任した彼と会うのは2年ぶりぐらいだったが、
新しい土地でも友人や同僚に恵まれ、楽しくやっているようで安心した。
そして奥さんも、奥さんのご家族も素敵な方々で、
ぜひ幸せになって欲しい、彼なら幸せになれると感じる、いい結婚式だった。
そんな一方で、日本での『幸せのカタチ』っていうのが存在するのだなというのを感じされられた。
もう何度も結婚式には招待して頂いた。
どの結婚式も一つ一つが幸せに溢れており、こちらも幸せな気持ちにさせてもらえるものだった。
ただ一方で、言葉にすると悪いが、どの結婚式もそう大きな違いはない。
こうすることが、こうあることが幸せと言うものだ、
というフォーマットが存在していて、皆がそれに自分を合わせようと努力する。
そういう息苦しさを微妙に感じてしまう。
友人にほぼ同い年の女性がいる。
彼女は自分の夢を成し遂げるため、新卒で入った会社を3年で辞め、
海外に飛び出し、20代の終わりに夢をしっかりと叶えて日本に帰ってきた。
そんな彼女と先日飲んだとき、いつも無邪気で前向きだった彼女から、
意外なほど複雑な心境を聞かされた。
一言で言うと、彼女自身がなりたいと思う姿と、
1人の社会人として生きていかなければならない現実。
そして結婚、出産といった、一般的な女性の『幸せのフォーマット』との間で、
板挟みになって苦しんでいるのが垣間見られた。
『やりたいことをやれ』というのは簡単だ。
だが、その一方で安心、安定が無ければ幸福感も感じづらいのも事実だと思う。
そして人間は比較をしてしまう動物だ。
自分のレベルと近しい人間と自分を比較し、自分がある程度のレベルにあることを感じることで安心し、幸福感を得るという側面がある。
よく人と比較するなと言う人がいるが、そんなことは不可能だ。
これは人間が群れの中で生きていく中で培ってきた本能のようなものなのだから。
まわりと自分を比較しないことなどというのは、同じ環境にいる以上は不可能なのだ。
絶対的な幸福感というものは存在しうるのだろうか、それはどこにどういう形で存在しているんのだろうか。